「プロのいない町づくり・国づくり」


東京女学館大学国際教養学部教授

博士(工学)・技術士(建設部門)・土地区画整理士

小 浪 博 英

hiro@konamike.net  http://konamike.net/hiro/

1.町づくり・国づくりの特徴

 町づくり・国づくりは総合学、経験学、感性学、説得学の更に総合である。つまり、そのカバーする領域は極めて広く、一人でカバーできないのが当たり前である。

 総合学は歴史、地理、心理学、社会学、数学、統計、確率、産業、教育、福祉、税制、財政、法学、土木、建築、造園、環境などについて、広く浅く(できれば深く)通じていることが要求される。

 経験学は、永年にわたる経験の蓄積が必要で、統計予測を越えた卓見あるいは直感が要求される。以前、住宅・都市整備公団の事業管理課長時代、公団採算の将来見通しを検討したことがあるが、金利差の1%、地価値上がり率の1%の差で、将来予測結果が数千億円から1兆円のオーダーで変わってきてしまうことが分かった。そのような中で当面2〜3千億円の採算を議論することはナンセンスであり、結局出来ることを精一杯やろうと言うことになった。これは30年から50年先のことを科学的に予測することは不可能であり、経験に基づく達観がいかに重要であるかを物語っている。大きなプロジェクトは大概30年はかかるわけで、従って、そこには優れた達観と柔軟な見直しが必要とされるのである。

 感性学は個人差が大きいが、壁面やスカイラインを揃える、ブロックはやめて生け垣にする、屋根の色彩を揃えるなど、かなり共通の認識もあるが、時としてバベルの塔を建てたがる建築家が現れることがある。優れたアーバンデザイナーが必要とされている。

 説得学は人徳・知識・話術・誠実・信頼などが要求される。どのような優れた案であっても、関係者の協力がなければ実現しないわけで、そこに説得力がなければ、どのような名案でも机上の空論となってしまう。

2.プロとは何か

 プロの棋士は過去の盤面を全て記憶していて、同じミスを二度と犯さないという。プロの行政マンは政治家からの要求を聞いて、それを実現するためのシナリオと問題点が走馬燈のように頭に浮かぶという。これらはその道一筋に打ち込むからできるのである。

 一方、町づくり・国づくりのプロは何処にいるのであろうか。政界、官界、学界、経済界、言論界、コンサルタント、いや、何処にもいない。政界は次の選挙のことがあるので住民が反対するようなプロジェクトに手を染めてはいられない。官界は2年ごとの人事異動ではとても不可能なことであろう。学界は象牙の塔になってしまって、生きた情報が入っていない。経済界は目先の収支が気になって遠い将来などはどうでも良い。言論界まで視聴率は販売部数の虜であり正論だけでは仕事にならない。コンサルタントは最高の教養を持ちながら、役所からは業者扱い、住民からはうさんくさい存在とされ、活躍する土俵がない。あの後藤新平でさえ大風呂敷と呼ばれたり、犯罪者として投獄されたりしたことがある。

 プロになれないとしたらそれを自覚して、何らかの方法でリカバーすることが必要となる。チームワークであり、謙虚さである。千葉大学の延藤安弘教授の話では、京都市役所の職員が地元説明会の冒頭で杓子定規を畳に投げ捨てたことにより住民の信頼を得たという。プロ根性があって初めてできることであろう。小田原評定であってもそこによい議長がいれば何れまとまってくるのではないかと考えるしかない。

3.欧米型民主主義と日本の民主主義

 日本では満場一致が、欧米では多数決があたり前であるのは何故か?日本は古くからの混住民族で定住を好む。黒潮、親潮、シルクロードのどれを通っても日本が終点であり、その日本が美しく住みやすいところである。従って、日本では村八分になることを極めて嫌う文化があった。

つまり、表だって衝突する前に根回しや酒宴があって、本当は反対の人でも、少しでも自分の意見が聞いてもらえたならば表向きは黙っているのが日本の文化であった。幸い肌合いも、言葉も類似していたので、それが可能であった。結果として若干骨抜きにされたりしても、満場一致で決まったことは、与野党が入れ替わっても内容は変わりようがないのである。一方、欧米は文化も共通のものはなく、言語もまちまちであれば、最後は多数決しか決め方がないのである。従って、政権や経営者が変わると、それまでの努力を無視して新しい方向性を探し始める。これはエネルギーの大なる損失を伴う。

 我が国では少数意見でも内容があればしっかり聞いてもらえる不文律があったのである。それを長老、または権力が預かっていたのである。

 現代の日本ではマスコミが主導して、長老も権力も塀の向こうに行ってしまった。視聴率が上がり、販売部数が増える施策が良いとされる。一種の衆愚政治である。これを衆賢政治に持っていくのはどうすれば良いのであろうか。町づくりのテーマを小学校で一生懸命教えるようにはなってきたが、町づくりは就職や所得の増加、または名誉の獲得にさほど貢献しているという印象はない。従って国民はその重要性を忘れている。NPOは相当生まれているので、そこに名誉か財政を与えて、再び日本型の民主主義を生み出すしかなさそうである。

 

4.計画実現の構造

 パリの例ではナポレオンという権力者とオスマンという計画者のチームワークで19世紀のパリ大改造が実現し、江戸は徳川家康という権力者と大田道灌という計画者のチームワークで17世紀の関東平野大改造が実現した。MM21は故八十島義之助東大名誉教授、故飛鳥田横浜市長などの数多い権力者、計画者の合作である。

 一方、最近話題のプロジェクトである溜池アークヒルズ、六本木ヒルズ、六本木ミッドタウンなどは何れも不動産関係の経済活動が生み出したものであり、東京圏の抜本的な改善にはほど遠いプロジェクトである。そもそも何の目的で何をするべきかが明確になっていないのである。これが民活の終着点なのであろうか。東南アジアのオフィス街に負けないような都心を作るというのであれば霞ヶ関の官庁街を移転してその跡に作ればいいのだし、かって丹下健三が提案したような東京湾新都市を作っても良い。品川や汐留めが出来たお陰で東京に国際的中枢が戻ってきたというようには、必ずしも短絡できない。むしろ鉄道や道路の混雑、ヒートアイランド減少の顕著化など、多くの問題を抱えていると言わざるを得ない。本来であれば、東京都または国土交通省の然るべき部署がきちんとした分析を行い、将来を見据えた上でのあるべき姿を国民に示すべきなのである。

 

5.プロ育成の方策

 さて、諸々の議論の中でどうすればプロのプランナーが育つのであろうか。プロというからにはそれで飯が食えなければならない。民間で育つのか、税金で育てるのかという議論を避けては通れない。昔、官吏を養成するため東大と京大を作った。教員を養成するため師範学校を作った。自衛官や警官を養成するため防衛大学や警察大学校がある。国土交通大学校は何をしているのであろうか。また、東大や京大は有能な官吏を養成しなくなったので、門戸を開放し、官民との人事交流だと言っている。本当にそうであろうか。プランナーが民間で育つのであろうか。先の読めない世の中において、経験と卓越した先見性とでやっていくのがプランナーであり、そこには当面の利益を無視した公益性が求められるのではないだろうか。多摩ニュータウン、港北ニュータウン、多摩田園都市。何れをとっても最終的には採算に合ったものの、その間には20〜30年の永きにわたる呻吟と努力がある。計画のプロとはそのような中から育つのであって、初めから採算が見えているわけではないので、民間ではやっていけないはずなのである。つまり、公共が計画を放棄したからプランナーが育たないのである。プランナーを育てるためには公共サイドの意識改革をすることが急がれている。

 因みにドイツではプランナー大試験という国家試験があり、3日間にわたって徹底的に実力を試される。その代わり合格したあかつきには一生プランニングで飯が食えるのである。

(参考)訪日のメッセージ:アルバート・アインシュタイン(1922年)

「世界の未来は進むだけ進み、其の間幾度か争いは繰り返され、最後の戦いに疲れ果てる時が 来る。其の間、人類は真の平和を求めて世界的な盟主をあげねばならぬ。

 この世界の盟主たらん者は、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き超えた最も古く又最も尊い家柄でなくてはならない。

 世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならぬ。

 我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを。」