確か大学2年の時、辻 達也助教授(横浜市立大学、当時)の近世社会史の講義の中で、大久保彦左衛門の「三河物語」を取り上げたことがあった。辻先生は近世史の大家、辻 善之助氏のご子息で、一般向け著書としては後に中公新書「大岡越前」を物され、ベストセラーになった。また「中央公論」だか「文芸春秋」だかで日本的なるものの多くがほぼ元禄以降、形成されたものだと指摘、それ以前とは時代を劃すべきではないかとの論陣を張られた。
「三河物語」について当時、私は、大久保彦左衛門の”自己身上書”めいたもので、不遇をかこつ大久保一族が徳川家のために如何なる功績を積んできたかを訴えた書と受け止めていた。とりわけ彦左衛門が旗本どまりで何故大名にされなかったかについて、大いに不満を抱いていたのではないかと、勝手に想像していたものである。
中国歴史小説の大家、宮城谷氏の著作は10年ほど前から大いに気に入り、八割方は読んでいる。「古城の風景」シリーズの一部も読んでいる。
今回の「新 三河物語」は彦左衛門忠教(平助)の目から見た徳川幕府草創史とも言うべきものだが、小田原藩取り潰しを始めとする大久保一族の幕閣等からの追放と、本多正信・正純親子や土井利勝の台頭、大久保長安事件など、大久保一族の不遇を齎した背景とそれらの絡み合い、それまでに至る経緯の描写が興味深い。
わけても、一族の柱、常源(忠俊)という人物の一族の采配振りには感心させられる。無私無欲の人で、平助の父、忠員(ただかず)は、常源の弟として常に本家のうしろに控え、分を尽くした。常源といさかいを起こしたことは一度もなく、常源もこの弟を愛し、信頼した。こうした情景を屡目にした平助に及ぼした影響はよほどのものではなかったか。平助が特に父から学んだのは”寡欲であれ”と言うことであった。その平助が小諸城主を若くして継いだ依田康国に対し、「天下の戦う国、五たび勝つものは禍なり、四たび勝つものは弊え、三たび勝つものは覇たり、二たび勝つものは王たり、一たび勝つものは帝たり」との呉子の教えを説いている。この話を聞いた長兄で常源の後を継いだ忠世が「小さな徳を積み重ねてゆくと、大きな徳になる。だが、いくさは違うのかな」と問うたのに対し、「いくさは人を殺してゆく仕業であることには違いはありません。正しくないやりかたで、やむなく国を保つ、というのがいくさです」と断じている。家康の”厭武”の考えに通じる思想である。すべては民のためである、というのが家康の理義。民のため、あるいは、大衆のため、という政治の理念は、中国の春秋時代に斉の国から生じたもので、孟子もそれにかかわり、民を苦しめる主を伐ってもよい、という革命思想を展開した。民意に天意があるという思想である。大いに共鳴出来るところである。
慶長13(1608)年に嫡男(のちの忠名)を得た平助は、この最初の男子に平助という仮名(けみょう)を与え、自身を彦左衛門と称することとした。
慶長18(1613)年、彦左衛門は沼津2万石の大名となっていた次兄、忠佐(ただすけ)に後継を望まれる。忠佐の嫡男、忠兼が病死し、ほかに男子がいなくなったせいだが、平助は「この地もこの城も、兄上の大功にふさわしいと天が誉め、地が讃えております。が、功のとぼしいそれがしが、この大身を継げるはずもなく、もしも継げば、天罰がくだるでしょう」と断っている。その5ヵ月後、忠佐は死去、家は断絶した。彦左衛門は分相応を地で行った人だった。大名になれなかったことに不満など抱いていなかった訳で、己の浅はかな理解を恥じるばかりである。
家康が幕府の拠点に鎌倉を検討していたことには驚く。城邑の築造に精通する藤堂高虎の「江戸こそ天下の大都城となり、鎌倉より繁盛するでしょう」との言で撤回する。さらに上方をも考えたようだが、結局江戸開府となった。建造に当たり、家康は城よりも城下の充実を優先させた。
彦左衛門は「曽我物語」を好んでいた。その書中の
「それ迷の前の是非ハ、是非共に非なり。」
を「三河物語」の冒頭文とした。
以上
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