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「『千世と与一郎の関が原』佐藤 雅美著 読後感」
2009/02/22 渡部 修


佐藤 雅美氏の著作には『大君の通貨』を始め、『恵比寿屋喜兵衛手控え』『我、器に過ぎたるか』『幽齊玄旨』『覚悟の人』などのほか、『半次捕り物控え』『縮尻鏡三郎』『物書同心居眠り紋蔵』『啓順』などの各シリーズがあり、一部TVドラマ化されている。その最新作が『千世と与一郎の関が原』である。
   
 主人公の千世は前田利長の娘、従って利家の孫娘であり、母は芳春院である。片や与一郎(忠隆)は細川忠興の長男、従って細川幽斎の孫であり、母親は明智光秀の娘玉、世に言うガラシャ夫人である。ということで、『幽斎玄旨』の続編と言えるのかも知れない。
   
 慶長2年、二人は豊臣秀吉のお声がかりで結婚する。二人とも18歳であった。平時であれば、彼らは極めて幸福な結婚生活を送ることが出来た筈だ。ところが、秀吉の死、そして会津(上杉景勝)征討(慶長5年)を転機に彼らの運命に狂いが生じることになる。
   
 徳川家康を主将とする征討軍が小山辺りに差し掛かった機を見計らって反徳川急先鋒の石田光成が征討軍に参加した武将達の妻子らを人質に取り始めたのである。無論、このことは事前に十分予想されたことで、その際には、ガラシャは自害することを忠興との間で申し合わせていた。忠興は忠隆に対しては、千世を実家に戻すよう指示していた。ところがあに図らんや忠隆は千世に”逃げ延びるよう”伝え、千世はその通り実行する。”ほとぼりが冷めれば何とかなるだろう”と思ったのだろう。二人共そう考えたようだ。だが、状況はそう甘くはなかった。家康は忠興に対し、「前田家との縁者振りを絶つこと」を強要していたのである。関が原後、忠隆は忠興に丹後の山奥、河守(こうもり)城の守備を命ぜられる。ここにやって来た千世を忠隆は喜んで迎え入れるが、これを以って忠興は、自分の意向を汲みとれぬ忠隆を廃嫡するのである。戦国の世を生き抜く術(すべ)を持たぬ人間に細川家を託すことは細川家の滅亡を意味する。そのことを忠隆は理解出来ないのである。

千世は千世で実家では歓迎されなかったようである。実父(利長)にすら出て行けよがしのことを言われている。漸く再会を果たしたのにも拘わらず、結局、忠隆は浪人を余儀なくされる。その後、二人の間に一粒種の熊千代が誕生するが、幼くして他界してしまう。これを機に結局は千世は加賀金沢に帰ってしまう。慶長10年のことで、8年間の結婚生活だった。千世はその後、前田家重臣村井長次の後添えとなり、二人の結婚生活は9年後、村井長次が死去するまで続いた。千世は寛永18年に62歳で亡くなる。
   
 他方、忠隆は猿楽、茶の湯など文化面で才能を開花させ、豪商の娘との婚姻で文化人としての本領を発揮する。また忠興との関係も修復され、三千石の捨て扶持を与えられる。与八郎,半左衛門の二人の男子をもうけたが、正保3年、67歳で波乱の生涯を閉じる。与八郎には跡継ぎがなく、半左衛門が(加増され)六千石高となり、以後、半左衛門家の当主は内膳を名乗り、幕末まで続き、その血は現在に伝えられていると言う。戦国の世に生きる厳しさ、戦国の世の婚姻の中でも二人の結婚が如何に儚いものであったかを思い知らされる。
   
 ところで佐藤氏が直木賞を受賞した後だったと記憶するが、こんなことを新聞に書いていた。何でも中学だか、高校だかの恩師(担任ではなかったようだ)の来訪を受けた。勿論、佐藤氏は快く自宅に上げ歓待した。恩師は佐藤氏の成長振り、文学賞受賞を殊のほか喜び、佐藤氏もそれに応え、その日は恩師に泊まって貰い、翌朝恩師を見送った。そこまでは良いのだが、その後、その恩師からは何の音沙汰もなく、消息も知れず、寂しい思いをした、と言うのである。確かそんな文面だった。そんなこともあって佐藤氏の作品には注目している。後日談を聞きたいものである。
   
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