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「山崎 光夫著 『風雲の人 小説大隈重信 青春譜』 を読んで」
2009/04/05 渡部 修



 本書は日刊紙『フジサンケイビジネスアイ』に連載された『アペタイト(知識欲)の男 小説 大隈重信』に加筆し、纏められたものである。
 かつて恩師、今井清一教授(横浜市立大学、岩波新書『昭和史』他著書多数)宅で、大隈肉声のレコードを聴かせて頂いたことがある。ある日の記録とかで、午前中は断酒会の集まりで”酒は百害あって一利なし”と説き、午後には酒造組合の会合で”酒は百薬の長”との演説をぶったものだった。それはともかく大隈については「大隈伯昔日譚」始め少なからず目を通していた積りである。 だが、誕生から幕末に至る彼の幼少年・青春時代については殆どと言っていい程、知識は皆無であった。

天保9年2月(1838年3月)誕生、幼名八太郎。7歳で藩校、弘道館の外生寮、16歳で同内生寮に進み、学問に励んだ。佐賀藩の石火矢頭人(砲術家)だった父、信保(知行300石、別途物成120石の上級士族)を13歳に時に喪い、その後母三井子の女手一つで育てられた。

母は佐賀藩、杉本家の出で、信心深く、古典にも親しむ女性だった。その母は佐賀者の気質を「他人を妬む気風がはなはだしい、決断力が乏しい、そして負け惜しみが強い」と断じ、「わたしは佐賀もんのこんな病気が大嫌いでな。そがん病気にかからんごと,お前ば育ていつもいばい」と話す。彼女の教養の高さが窺い知れよう。

会所小路の自宅の中二階にある彼の自室が仲間の溜まり場で、大木民平(後の喬任)、久米丈一郎(同邦武)、江藤新平、枝吉次郎(後の副島種臣)らが始終集まっては議論に花を咲かせていた。彼らに共通していたのは鍋島論語(武士道「葉隠」)や朱子学に否定的だったことで、その流れから八太郎は楠公精神の高揚を期し、国学を学習する義祭同盟に参加する。義祭同盟は枝吉次郎の実兄、神陽が主宰していたものだが、彼は長州藩の吉田松陰にも擬せられる人物である。大隈は後にこの義祭同盟での活動を「私の一生の精神行為を養成した第一歩であった」と述懐している。
 当時、弘道館はどちらかというと鍋島論語・朱子学を旨とする南寮とそれを否定する北寮との間でいがみ合い、ケンかが絶えなかった。意に沿わぬ南寮の八太郎はしばしば北寮に出掛け、それが高じて乱闘騒ぎとなり、18歳の八太郎はその首謀者と目され、退学処分を受ける。弘道館の学生は概ね

いつも書物と首っ引きでタダ勉強ばかりしている儒骨、
書物が嫌いで常に遊んでばかりいる惰骨、
ケンカや議論好きで豪傑を通している奸骨

に三分されており、八太郎は奸骨型を自認していた。その後、弘道館への復学は認められたものの、遂に彼は戻ることを潔しとせず、蘭学寮に入所する。そこで大庭雪斉(シーボルト、緒方洪庵に学ぶ),大石良英(本木昌造の次男)、渋谷良次(緒方洪庵の弟子)といった錚々たる教授陣に教えを受ける。さらに小出千之助という秀才に巡り会い、その薫陶を受ける機会に恵まれる。小出とは”ナポレオン研究”を共にし、さらに小出の米国行の際の体験談を摂取する。そして英学という新鉱脈を学び取り、自らの人生の血脈とするのである。
 その後、野中元右衛門、古川彦兵衛といった商人との交流が加わり、八太郎の活動は厚みを帯びて来る。カビの生えた米の処分に窮した八太郎に「私が処理しておきましょう」と、古川がそれをバハン(密貿易)に回して利益を上げたーという件があるが、昨今の事故米事件を想起させる。そうこうしているうちに江副家との交流が深まり、その家の美登との縁談がまとまり、程なくして犬千代(後の熊子)をもうける。
 文久2年頃、八太郎は代品方(かわりしなかた、貿易を司る役所)に配属される。原五郎左衛門からの指示で、そこでは江藤新平が書記を務めていた。その仕事の過程で小出の伝でオランダ生まれのギドー・フルベッキ
に巡り会う。彼との交流の中から英語学校「到遠館」設立を企図、実行に移す。その際のやり取りの中で、八太郎はフルベッキから教えられた米国独立宣言に深い感銘を受ける。

第三代大統領に就任したトーマス・ジェファソンは1825年、82歳の時にヴァージニア大学を建学するが、これを模範に後に大隈は東京専門学校(後の早稲田大学)を興すのである。本書の中で彼が医学部の設置を目指していたことを知り、さもありなんとも思ったが、逆に何故実現出来なかったのかが却って不思議な位である。
 明治維新を迎え、八太郎は徴士外国事務係、さらに程なくして外国官副知事に任命され、新政府での煌びやかなスタートを切る。築地梁山泊の話もそれから間もなくのことである。

以上

渡部 修

   
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