「筑前の<小京都>とも呼ばれる。武家屋敷、足軽屋敷、町家が東西に開けて続いていた。武家屋敷から少し離れた町家の裏側はすぐに田畑や草地だった。二本の道が交差するところが札の辻で、ここを起点に北へ向かえば八丁口を経て白坂峠を越え、長崎街道に合流する。南に出ると、浦泉口を経て英彦山(ひこさん)への道に出る。東に向かえば野鳥口を経て八丁越えへ、西は福岡口を経て甘木(あまぎ)へといたる。」
本書の一節である。秋月藩は福岡黒田藩の支藩で、石高5万石の小藩。城は無く、藩主の御殿も館にあった。35年程前、夏期休暇を利用して甘木に滞在し、ここを拠点に弟共々、弟の友人、山口 弘嗣氏の案内で周辺各地を観光、その際、当地を訪れたが、しっとりした静かな佇まいの町で、すっかり魅了されてしまった。山口家のご先祖(姓は異なるが)も秋月藩士で幕末期の地図に住所が記されているのを確認したものである。私が秋月に興味を持ったのは「秋月の乱」が頭にあったからだが、とてもそんな風な場所柄とは思えなかった。確か『寅さん』シリーズでも取り上げられた所ではなかったか。そんなこともあって、本書を読んでみた。
藩政を恣(ほしいまま)にする家老、宮崎織部の一派、それに対し憤然と立ち上がる主人公、間(はざま)小四郎とその仲間達。度重なるせめぎ合いの末、思いがけぬ助勢(本藩から遣わされた伏影=隠密など)もあって間らのクーデターは成功する(織部崩れ)。後にそれは飽くまで表向きだけのことだったことを嫌と言うほど思い知らされる。実は織部の言動は藩主の意向を慮ったものだったこと、織部が一人で悪役を買って出ていたこと、織部と取り巻き達とは必ずしも一枚岩では無かったこと、これらの背景には藩が巨額な財政難に見舞われていたことなど、そして何よりも本藩による横車など、一筋縄では行かないことを小四郎らは痛感させられる。
彼らは藩政の中枢に昇り、改革を進めていく中で幾多の試練に見舞われるが、そのうちに仲間の一人だった伊藤吉左衛門が家老、間が中老となり,両派間で対立を生じるようになり、織部崩れ以前の蒸し返しの如き状況を呈する。原因は煎じ詰めれば”金”に尽きるのであるが。借財のため大坂商人達に下げたくも無い頭を繰り返し下げ、成功に漕ぎ着けるが、それとて結句、本藩の意向が働いていたことも後に判明する。
こうした背景には本・支藩間の学問上の対立も大きく立ちはだかっていたように思われる。福岡藩には貝原益軒の学統を受け継ぐ東学問所(修猷館)と徂徠学の亀井南冥が教授の西学問所(甘棠館)があった。当初は西学問所が盛んだったが、幕府が<寛政異学の禁>を打ち出すと、寛政4年(1792)、南冥は罷免され、やがて西学問所は閉鎖に追い込まれる。徂徠学派の藩校は諸国でも珍しく、秋月藩では南冥に師事した原古処(震平)が藩校、稽古館教授の任にあった。本藩と支藩との折り合いが思わしくない関係にあったことを裏書している。事実上の見合いの席で若き吉田小四郎が義父となる間篤から「御家がいかに学問を大切にしておるか…そのことは覚えておいた方がよい」と、言い含められる。後に間は本藩学問所に出向き、教授方、瀬沼霞軒に面会する。霞軒が徂徠学を非難するのは、荻生徂徠が儒教を治国安民の政治学としたからだった。徂徠は、”聖人の道は天下国家を治むる道なり” とした。朱子学では治者が道徳的であれば天下国家は無事に治まるとしているが、徂徠は政治の結果責任を負うものこそが治者だというのだ。徂徠によれば、どれほど至誠の心があっても民を安んずることが出来なければ徒(いたずら)な仁でしかない。このことは朱子学者にとって聖人君子としての道徳をないがしろにする考えだった。霞軒には秋月の学問は聖賢の道を外したものに見えたのである。間は秋月藩が徂徠学を学んで来たことを「間違っていたとも思えませぬ」ときっぱりと言う。その後、霞軒が秋月に乗り込んで来て、朱子学の浸透を図るべく郷村巡りを行うが、その際に庄屋にもてなしを強要し、時には金品や村の女を差し出させていたことが判明、叱責処分を受けるという一幕もある。
かつて織部の元へ表向き妾奉公に出された農家の娘、いとが祖母から伝えられた葛の製法を苦労の末編み出すが、程なく労咳で、「わたしは、もう人の役に立ちましたから」との言葉を残して息を引き取る。協力してきた村人久助の努力もあって商品化に成功、間はこれを藩財政を救う窮余の一策として提示し、奏功する。
間は43歳で隠居するが、その後も隠然たる力を保持し続ける。それもあってか藩主を蔑ろにし,専横の振る舞いがあったとされ、本藩から御納戸役杉山文左衛門が派遣され取調べに当たる。流罪処分言い渡しの後、「随分と悔いておろうな」との杉山の言に対し間は即座に否定、「拙者の胸にあるのは安堵の思いだけでござる」「それがしは弱い人間でござった。その弱さに打ち克ちたいと思って生きて参った。そのために一生があったようなものでござれば、これでやっと重い荷を下ろせ申す」と応じる。かつて糾弾した宮崎織部と同様の立場に彼もまた置かれたのである。玄界島への護送の際の二人のやりとりはこうだ。「杉山殿は秋月に来られて、騒がしい様をご覧になられましたか」「いや、まことに静謐でござった」「その静謐こそ、われらが多年、力を尽くして作り上げたもの。されば、それがしにとっては誇りでござる」。(間)余楽斎は顔をあげると道を一歩ずつ踏みしめて歩き出した。青田を渡ってくる風がさわやかだった。最後のくだりである。山本周五郎著『ながい坂』(主人公は三浦主水正)のフィナーレを髣髴とさせる情景である。
以上、
渡部 修
尚、私が大好きだった山口 弘嗣氏は残念ながら10余年前、他界された。