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「幕末維新と佐賀藩」 毛利敏彦著(中公新書)読後感
2008年9月17日 渡部 修

小生、幕末・維新に深い関心を持っているが、薩長土肥と言われる割に、イマイチ肥の蔭が薄いように感じていた。そんな折、毛利敏彦著「幕末維新と佐賀藩」(中公新書)が刊行されたので、早速手にしてみた。氏の著書は以前にも、「大久保利通」、「江藤新平」を読んでいたので、さして抵抗無く読むことが出来たが、研究成果の蓄積のためか、あるいは年齢を重ねたせいなのか、人物や物事への氏の好悪が歴然と出ているのに驚かされた。正直言って、自分自身、鍋島斉正(のち直正)の存在がどのような意味を持つのかよく分からなかったし、肥前閥の人間がどのような人達なのか取り立てて思いを致すことが滅多に無かった。強いて言うなら、初代司法卿、江藤新平は数少ない好感を持てる人物としての感懐を得ていた位だ。

毛利氏はこの著作をものするに当たり、長崎御番→鍋島斉正→江藤新平という太い流れを軸に据えて幕末維新史を再構成すべく臨んだという。家光の時代、幕府は鎖国に踏み切ったが、併せて福岡藩に長崎港口警備の軍役すなわち「長崎御番」を命じた。しかしながら一藩にとっては余りに荷が重すぎると見て取った幕府は、佐賀藩と一年交代で勤めさせることにしたのである。このことが、両藩の海外に対する目を開かせていったのは容易に想像出来よう。さらにフェートン号事件を始めとする相次いだ難問の生起は一段と海外への関心の度合いを深めて行ったに違いない。このことは両藩に留まらず、西南雄藩、ひいては海に面した諸藩全てが否応無く当面させられた課題であったろう。

吉田松陰が東北行の際、しばしば外国船を見かけたと報告していることからも、いずれの藩にとっても差し迫った緊急課題であったと思われる。
鍋島斉正は軍備の充実を図るため造船、砲術の研究に力を注ぎ、遂には高性能の鉄製大砲を幕府のみならず、諸藩の求めに応じて供給するまでになったのである。また安政2年に創設された長崎海軍伝習所に佐賀藩は精鋭48人を送り込んだ。幕府・諸藩を通じ最多の人数である。そうした中で斉正は強硬な交易拒絶論を吐く。その内実はどうやら米国に対してのようである。米国艦隊の長崎忌避がその理由である。そういえば、橋本左内が日英交易を拒絶し、日露交易を推進すべしとの論を展開していた。幕府との交渉過程における外国側使節の態度が判断の決め手になったようである。

ところで毛利氏は開国時の有力者の路線傾向を抵抗の度合順に孝明天皇、徳川斉昭、「長州藩尊攘派」、松平慶永、井伊直弼、阿部正弘、「幕府官僚制」、島津斉彬、鍋島斉正(直正)と位置づけ、抵抗路線から克服路線への推移が、明治維新変革の論理的本筋に沿っているのではとの指摘は興味深い。これを志士と言われる個々人で見るともっと面白いかもしれない。私がかつて取り上げた五代才助(友厚)は早くから島津斉彬、鍋島斉正並みだったし、上海行以前の高杉晋作は明らかに「長州藩尊攘派」の代表だった。

幕末維新で見過ごすことの出来ないのが血縁関係である。島津斉彬と鍋島斉正(直正)は従兄弟同士だし、彼らと黒田斉薄、伊達宗城などとの間にも濃い血縁関係があった筈である。また公卿との血縁も浅からぬものがあり、それらを抜きにして幕末維新を理解することは出来まい。

江藤新平の新国家建設に寄せる並々ならぬ情熱はこれまでにもある程度は承知していた積りだ。彼は佐賀藩にあっては「民生仕組書」を起草、太政官にあっては民法会議を組織し、「民法決議」七十九カ条をまとめ、さらに「国法」、すなわち憲法制定の必要性を説いた。明治5年4月江藤は司法卿に任命されるが、着任早々打ち出したのが「民の司直」である。彼によれば、司法は何よりも民のためのものであり、民の幸せに奉仕することが存在意義だった。裁判制度についてもその目標は,結局は民衆が訴訟をしなくともすむような安心安全社会の実現に寄与することだ、つまり裁判が不要な社会へと導くのが裁判の使命だというのである。

惜しむらくは常に江藤の後ろ盾となっていた鍋島直正の早世(明治4年正月、数え58歳)である。江藤は葬儀委員長を務めている。直正がいま少し長命であれば、佐賀の乱は未然に防げたろうし、ましてや大久保利通らの策略にはまることは無かったろう。日本近代史は初っ端に取り返しのつかないミスを犯してしまったのである。
江藤新平の次の言葉でこの稿を締めくくりたい。「国の富強の元は国民の安堵にあり、安堵の元は国民の位置を正すにあり」。

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