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「太田 正彦君のこと」
渡部 修
2009/06/04
 太田 正彦君が逝って早1ヶ月余が経過した。

 彼は小学校4〜6年、同クラスだったが、特に深い付き合いはなかった。井草に餅草摘みとか魚取りとかに出掛ける度に立ち寄った剣道場「大義塾」(いまはもうない)を覗くと、熱心に稽古する彼の姿を目撃したものものである。当時、雑誌『ぼくら』の取材を受けたりしていた。音楽の授業の時間、先生に名指しされたものの稽古で声をからしていたため歌えず、泣いてしまったことを思い出す位だ。

 小学校卒業後、再会したのは30年程前。小学校6年時担任の関口 昇先生が火事で焼け出され、ご母堂と令嬢を亡くされた時だ。先生の避難先に見舞いに伺ったが、帰りがけ「太田 正彦君も来てくれたよ」と聞かされ、早速、彼と連絡を取った。当時、彼は「警視庁」「石原軍団」「川口浩探検隊」などのシリーズ物を手がける、テレ朝の敏腕ディレクター。私は終業後、彼の職場を度々訪れ、そのうち「先生をお慰めするのにクラス会でもやろうか」と言うことになり、クラスメイト捜しが始まった。この時の彼の精力的な活躍ぶりには驚かされた。不明の人について先ず都内の同姓のお宅に片っ端から電話を掛け捲るのである。無論、私も同様。東京が済むと、今度は周辺3県。次いで判明した連中を集め、手分けしてかつての住所の周辺に当たり、転居先を突き止めるのである。日頃、この調子でやっていたのだろう。こうして9割方の所在が判明、荻窪の「東信閣」でのクラス会開催に漕ぎ着けることが出来た。60人程いたクラスメイトのうち40人を超える高い参加率を得てのクラス会となった。正午スタートで、5次会終了は零時過ぎになっていた。

以来、彼とはじっ魂の間柄となり、お互いの行きつけの飲み屋に行ったり、彼が関わる番組に誘われたりと交流が深まった。中野のスナック「さくら」に行った際、ここが歌手の三條正人の後援会事務所代わりの店と分かり、「そういえば、高校(日大二校)時代、NHK教育テレビの数学講座で香山 美子と一緒に出ていたんだ」と漏らしたものである。
 ヒルズ以前のテレ朝本社敷地内で毎春開催されていた「観桜会」には6,7年続けて家族で招待して貰った。いつしか「モラル会」にも参加して貰うようになり、「上海のマヌエラ」「飛騨高山」「簪美術館」などを企画して貰った。
 30年以上前、彼は野際 陽子(小学校の先輩)をメインキャスターにしたキューバ訪問番組を担当、カストロ議長とも面会している。当時の番組関係者でキューバ同窓会ツアーの計画があると聞かされ便乗を期待していた私だが、彼の入院で当面難しいと判断して一昨年、奥澤氏とキューバツアーに参加、帰国後、真っ先に入院中の彼に報告したものである。

 彼はまた私の命の恩人でもある。やや飲み過ぎの傾向があった私に、肝臓にいいからとターメリック(ウコン)を毎日服用するよう勧めてくれたのである。資料を手渡しで貰ったり、別途、何十枚もFAXしてくれたり、現物も格安で分けてくれりした。母から勧められた梅干とこのターメリックは私には不可欠のものとなっている。
 10年程前、彼はテレ朝を早期退職、飲食業に転身したが、この商売、彼には合わなかったのではとの印象を拭えない。4年程前、三室さんと荻窪・教会通りのピザ屋を訪れた際、”居場所がなくて”とつぶやいていたのが気になった。ゆくゆくはご母堂、夫人の郷里である福岡に移り、新生活を切り開きたいとの思いもあったようだ。
 そんな最中の3年前、突然の不幸が彼を襲った。バイクに追突され、胸、腰、膝を骨折、特に膝は複雑(粉砕)骨折で、結局、河北病院に丸2年以上入院する破目になり、その後も通院を続けていた。昨年、退院直後の6月、恒例のクラス会が荻窪のホテル「クラブイン」で彼の司会により執り行われた。9月下旬、彼の音頭で、小松 博栄君の小淵沢別荘に6人が集い、新そばを食す会が催された。彼は治療の関係で酒が飲めず、申し訳なかったのだが、その分、よく話しをしてくれた。見舞い時にも「テレビは一億総白痴化の元凶」とか「テレビは百害あって一利なし」など、テレビ亡国論を吐き、今はラジオの時代だと主張、聞くべき番組を詳しく教えてくれたりした。政治向きのこともよく語り、その後、ラジオを持たない私は家族から借りて聞いたものだ。彼は勝谷 誠彦が結構いいよと話していた。なんでも田中 康夫のブレインだと言う。小淵沢合宿の際、「竹中は半島出身で、数年前日本に帰化したとの話があるよ」との私の話が気になったらしく、情報源を教えてくれとのメールを寄越したほどである。
 その後、彼はテレビ関係の仕事を受け、こなしたりしていたが、慎重を期しての検査入院の最中、あっけなく還らぬ人となってしまった。 7月のモラル会での彼の話に凄く期待していたのだが。
 4月下旬、荻窪にある奥澤氏行きつけの居酒屋「舟山」でやはりクラスメイトの田中 稔氏と3人で議論していたが、太田君のバイタリティーを何とか区政に活かせないかという話にまで及んでいた。
彼の他界の10日程前のことである。口惜しい想いで一杯である。

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