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「『幕末銃姫伝』ー京の嵐 会津の花  を読んで」
2011/05/08 (日) 15:45 渡部 修

【読後感】

 思いがけずいい本に巡り会った。藤本ひとみ著『幕末銃姫伝』を読み終わっての実感である。何年か前、彼女の『皇帝ナポレオン』を読んだが、特にコレという感銘を受けることはなかったが、今回は違った。山本 八重(1845−1932)の半世記だが、宏遠な内容を包含している。幕末における会津藩の置かれた立ち場、その重大性については幼少時からある程度、承知していた。白虎隊、それに野口英世の絵本は小学校に入る前からみていたし、彼らについて、よく聞かされても来た。父親が会津出身だからである。縁戚には今黄門こと渡部 恒三氏がいる。従って会津に行けば親戚は皆、「わたなべ」である。我が家ではとある事情で父の代から「わたべ」に変えている。
 それはともかく、山本家は父 権八、母 佐久、兄 覚馬、弟 三郎、そして腕力に自信はあるが裁縫は苦手という八重の5人家族。代々、砲術指南役の家に育ち、既に砲術師範の任にあった16歳年上の兄、覚馬の勧めもあって12歳にしてこの道を志すことになる。彼女が敬愛してやまない兄は専ら佐久間象山に師事し、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助らとも交流する超一級の知識人だった。その兄から直接、銃や砲術、兵法を学ぶのである。渾身を込めて学問に身を入れたに違いない。とりわけナポレオンの伝記や兵法の解説書には一際惹かれたようだ。佐久間象山のもとには自藩への招聘のため、高杉晋作、久坂玄随、中岡慎太郎らが訪れており、そうした連中との交流も描かれている。
 藩で覚馬を後押ししてくれたのは家老の梶原平馬、大砲奉行 林権助、元家老 山川重英(しげふさ)(大蔵の祖父)らのいわゆる進歩派の面々。藩主、容保が京都守護職の大命を受けるに当たり、家老、西郷頼母は藩財政を鑑み、真正面から反対を唱え、藩主と対立する。覚馬は内実、頼母と同調しているが、表には出せない。苦しい立場だっただろう。
 新撰組の斎藤一(後の山口二郎)も兄に弟子入りし、3年余りを学ぶ。
 同年輩の山川大蔵(後家老)との淡い恋、二人のやりとりが全編を貫くことになる。上洛する前(出征前)、大蔵はその挨拶に訪れ、家安泰のため祝言を挙げていくことを八重に伝える。大蔵が帰った後、八重は笹竹の枝に短冊が結ばれていることに気付く。流麗な筆遣いでこう書かれていた。
 「死ぬるまで夢見るものは故郷の 桜下に咲いた八重の山吹  山川大蔵」
 このことが彼女の生涯の行く末を左右することになる。兄の愛弟子、出石藩出身の川崎尚之助(正之助改め)との結婚、河井継之助からの度重なる長岡藩への招致の話に、迷いを隠せない尚之助。会津藩にとって覚馬という後ろ盾のない彼は飽くまでもよそ者なのである。
 佐久間象山の死後、象山が背に傷を受けたとの理由で佐久間家はお家断絶の憂き目に遭う。子息 各二郎は覚馬の仲介で新撰組に入隊するが、後脱退、伯父に当たる勝海舟の指導により戊辰戦争で手柄を立て、佐久間家再興を果たす。一方、象山惨死を目撃した覚馬は、襲撃の中心人物が肥後の河上彦斎であることを突き止め、伊藤利助(俊輔、後博文)に面会、しかるべく措置をとるよう求める。
 家茂、孝明天皇の死によって会津藩、容保の立場は様変わりする。
 4月14日、高杉病死。10月の大政奉還、11月15日龍馬暗殺を経て王政復古の大号令‥‥龍馬、中岡慎太郎に手を下したのは会津藩公用人 手代木 直(すぐ)右衛門の実弟、佐々木唯三郎が与頭勤方を務める見廻組で、今井某が実際に手に掛けたことを自白している。こうして幕府は倒壊へと歩を進め、将軍の江戸逃亡、恭順の意を顕すための寛永寺謹慎、他方,容保は会津帰藩、そして籠城を余儀なくされる。藩主の大坂脱出をくい止めることが出来なかったとの科で神保修理は切腹を命じられる。実は修理は逃亡を図ろうとする慶喜を面と向かって「卑怯者!」と、罵倒していたのだが。
 藩で銃や砲を最もよく知り,最も巧く扱えるのは自分、誰にも劣らないとの自負が八重にはある。それだけが自分の価値なのだとの思いを強くしていた。鶴ケ城に籠城する中、八重はそうした考えを元に縦横無尽の働きをするのだが、官軍側の最新式エンフィールド銃の射程八町なのに対し、一町から三町でしかないゲベールやヤーゲルでは対抗できる筈もなかった。戦前、覚馬は長崎のレイマンとプロイセン式ツンナール銃4320挺の購入契約を交わしており、籠城側はその到着を待ち侘びていたのだが、途中、官軍側に押収されてしまい、それによって結局は降伏せざるをえなくなるのである。
 籠城の最中、4歳年下の弟、三郎が鳥羽伏見の戦いで負傷し、江戸へ送られた後、亡くなった。兄、覚馬は京都洛内で警邏中の薩摩藩士に捕らわれ、四条河原で斬首された模様と秋月悌二郎から聞かされる。父もまた戦死する。八重の家は母、義姉、姪、そして自分の女ばかり4人が取り残された恰好だ。また八重は、大蔵の妻、登勢の最後を看取る。登勢のいまはの際の「いつか戦いが終わり、皆が納得のいくように生きられるといいですね」との言葉は、著者の思いを顕したものだろう。
 エピローグでは交流のあった人々のその後の消息が報じられるが、何と斬首された筈の覚馬が生存していることが判明する。禁門の変で顔を見知っていた薩摩藩士が覚馬が文久三年に著した『守四門両戸之策』 を読んでおり、助命嘆願してくれていたのである。尚之助は会津藩を出た後、消息不明である。
 八重は後に、同志社大学を創設した新島 襄と結婚し、女子教育に邁進するが、本書ではそのことには触れられていない。続編が準備されているのだろう。期待したい。

渡部 修  
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