HOME

「『トマス・グラバーの生涯ー大英帝国の周縁にて』を読んで」
2012/10/08 (月) 17:01 渡部 修

・「(1859年)9月19日、昼下がり。気温33度、長崎らしい気候だ…」で始まる『トマス・グラバーの生涯ー大英帝国の周縁にて』を読んだ。153年前も今年同様暑い9月だったようだ。著者はグラバーと同郷、スコットランド出身のマイケル・ガーディナ氏。日本女子大、千葉大で講師、助教授を務め、現在、本国のウォリック大学教授。1970年生まれの新進気鋭の研究者だ。本書の冒頭で、敢えて“長崎で平和活動にたずさわる人々に”と謳っている。パシフィストである。

・さてグラバーというと、一般的には『蝶々夫人』の舞台となったとされる長崎のグラバー邸の主として知られる。が、実際には日本の近代化に大いに貢献した英貿易商である。我々よく目にする写真のグラバーは髭を蓄え老成しているが、彼の来日時は実に21歳の若者だったのである。海軍(沿岸警備隊、大尉)あがりの造船業者を父に持つ。その彼が半世紀以上に亘り日本で活躍、永住する結果になった。この間の彼の主な治績としては茶、生糸などを扱う本業は勿論のこと、造船、蒸気機関車の導入、造幣、炭鉱経営、ビール醸造、三菱財閥の顧問など多岐に亘るが、彼が最も心血を注いだのは幕末・維新回天期における武器・艦船などの調達、斡旋といった取引とそれに関わる様々な活動なのである。

・日本近代史でまずグラバーが評価されるのは「長州五人組」 (伊藤俊輔、井上聞多、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉=井上勝)、及び「薩摩藩士19人」の英国留学を手配した件だが、本書によると前者に関してはグラバーは深入りしておらず、ジャーディン・マセソン商会のS・J・ガワー氏の手引きによるとしている。グラバーは「自分が最重要視している薩摩藩との『貴重な信頼関係』が崩れかねないと感じて、長州藩の侍には用心をしていた」という。

・著者は「グラバーには数多くの侍の友人がいたが、おそらく五代が終始一貫して心を許せる友人であったろう」と指摘する。五代は薩摩藩士、海軍伝習所(塾頭:勝麟太郎)に派遣された俊才で、才助の名付け親は藩主、島津斉彬といわれる。斉彬の死で伝習所生活は中断されるが、7ヵ月後、藩駐在として長崎に復帰する(安政6=1859年5月)。従ってグラバーは来日間もない時期に五代と接触していたものと推測される。万延元年(1860)、もしくは文久元年(1861)に2人は早くも上海に渡航、天佑丸(746トン)の購入に当たっている。『薩藩海軍史』が「薩摩藩における海運上に一起源を割したる第一の汽船」と評価していることから、天佑丸購入の意味の重大さが伺える。この功績で、五代は船奉行副役に任じられる。2人をさらに結び付けたのは生麦事件をきっかけとする薩英戦争(1863年夏)。英国の軍事力をまざまざと見せ付けられた五代は攘夷論をかなぐり捨て、新しい規模での再軍備の必要性を痛感、武器・艦船の調達をグラバーに依頼、これがグラバーの新兵器の仲買人としての第一歩となる。100門のアームストロング砲を始めとする多数の大砲の調達である。「再軍備に関してi意見を交わす中でグラバーは五代の中に、攘夷の『無骨な気概』抜きの『最高の侍の資質を見いだしていた』」と描く。1865年には五代、松木弘安(=寺島宗則、船奉行)ら薩摩藩留学生19人が英国に派遣されるが、一切グラバーの手配による。本留学生達の事実上のリーダーが五代だったのは言うまでもない。五代は新納刑部(大目付)と共に英国、フランス、ベルギー、オランダ、プロシアなどの各地を巡り、多くの工場、事業・社会施設などを精力的に視察。ビスマルクなど各国要人達とも意見交換を重ね、ベルギー政府とは合弁で商社設立まで約束している。

・長州藩グループの二度目の密航、肥前藩の密航はグラバーの手配によるもので、1866年初頭に英国に滞在する日本人はアバディーン5名、ロンドン9名、グラスゴー1名との記録が残っている。伊藤ら長州藩士らとの接触も深まり、両藩への武器・艦船調達は飛躍的に拡大する。それが高じ桂小五郎(木戸孝允)や坂本龍馬らの努力も実って薩長連合締結に漕ぎ着けるのだが、裏面でのグラバーの動きが大いにモノを言ったに違いない。後に「幕藩体制にとって自分は最大の謀反人」と述懐するのもむべなるかなである。

・他方でグラバーはフランスとの軋轢に悩まされることにもなった。モンブランの出現である。彼は早い時期に日本学者として来日しているが、訪欧中の五代らに接近、様々な視察、政府高官との会見に便宜を図ることによって薩摩藩の利権に食い込むことに成功したのである。薩摩藩の1867年仏博覧会出展は全てモンブランの手配による。モンブランはベルギーでは男爵、フランスでは伯爵の称号を持つ人物。慶応3年(1867)9月、そのモンブランが来日、鹿児島では大名並みの歓迎を受ける。王政復古から新政府誕生の時期、即ち鳥羽・伏見の戦いを挟む時期、モンブランは五代らと共に兵庫辺りに滞在している。この間、グラバーは帰省中で日本を留守にしている。

・天皇制(王政)復古の後、五代と伊藤と井上は大阪、兵庫、長崎で改革者として重要な位置を占める。知事、判事などとして。このことはグラバーにとって好都合なことであったが、半面、武器仲介の仕事は急速に萎んでいく。 当然、経営状態は不振で15万ドルを超える負債を抱えるに至る。そんな事態を打開すべく故郷、アバディーンへ帰国したのだ。兄弟達と練った解決策を持参し、1868年1月、日本に戻ると、九州にある資産を整理統合し、横浜と兵庫という拡大しつつある地域で多くの資産を入手した。同時に、平和時における経済をあらかじめ見越して、実業家への転身を図る。1869年1月には夫人になるツルと知り合っていたが、仲介者は五代であった。その五代も1869年中には実業家に転身していた。

・1870年9月、グラバーは「炭鉱事業を振り返って、ひょっとしたら,長州、肥前、肥後、諫早藩の、新しい政治的な地位にうまくなじんでいない友人達を信用しすぎてしまったのだろうか。薩摩藩でさえ、進んで彼を助けようとはしないように見えた」と、懐疑の念を抱くようになっていた。が、1873年になる頃には、五代がグラバーの造幣に関する接点、伊藤が炭鉱に関する接点となったので、グラバーは再び権力者のお歴々とつながったと感じた。

・その他、本書には『宝島』のロバート・ルイス・スティーヴンソン(エディンバラ生まれ)との関わり、日英同盟への足がかりを築いたスペンサー伯(ダイアナ妃の祖先)との交流、麒麟麦酒(グラバーのジャパン・ブルワリー・カンパニーが前身)のラベルの図案はグラバーの娘ハナが古代中国の伝統上の神獣から考案したもので、その頬髯はグラバー本人の口髭が下敷きだったこと、ジャポニズム(明治版クールジャパン)への明治政府の取り組みなど興味深いエピソードを紹介している。

・1908年、グラバーは日本政府より外国人として初めて叙勲の栄誉に浴した。勲二等旭日賞を授与されたのである。1909年12月16日、グラバーはブライト病(慢性腎炎)で帰らぬ人となった。享年73。ある新聞の死亡記事にはこう書かれた。「故人ほど日本人から深く信頼され、また日本人を理解した外国人はいなかった。…{その親しい友人に含まれるのは}故伊藤公、大隈伯、井上侯、その他である」。終始一貫して心を許せる友人だった筈の五代の名はない。五代はほぼ四半世紀前の明治18年(1885)9月、50歳9ヵ月の若さで死去していたからである。

・さて日本で著名なグラバーだが、本国、英国では権威ある日本史書で一切言及されていないのだという。ガーディナ氏はグラバーが「大英帝国の周縁たるスコットランド人だったことに起因するのでは」と推測する。日英関係史の貧弱さを今更ながら思い知らされた感がする。萩原延寿著『遠い崖』を改めて読んでみたくなった。

・ご関心の向きは拙著『功名を欲せずー起業家・五代友厚の生涯』(毎日コミュニケーションズ、1991年4月刊行)を参照されたい。楽天の古書コーナーなどで入手出来るかも知れない。

・最後に過日モラル会HPに掲載された幕末46士(PDF版)につき若干のコメント。

映画の撮影ではあるまいし、ここに記された人物達を一ヵ所に集合させるのは無理。
少なくとも五代友厚(20)は人違い。
明治天皇{祐宮、(40)}はありえない。
井上肇(7)は井上馨の間違いと思われるが、これも他人。
フルベッキ、ウィリアムは当然として、勝海舟、大隈重信、後藤象二郎は当人達の可能性大。

出典が判るとかなりはっきりするのだが。    (渡部 修)

HOME TOP
Copyright (c) Moralkai all right reserved.