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『春風伝』を読んで
2013/07/21 (日) 16:54 渡部 修

【読後感】

・葉室 麟著『春風伝』を読んだ。主人公は高杉春風、字は暢夫、通称は晋作。従って本書は『高杉晋作伝』である。父は小忠太春樹。石高二百石の上士で、小納戸役、奥番頭、直目付役などを務めた後、定広が長州藩世子となってからは小姓役を務めている。定広は晋作と同年。
晋作は7、8歳頃から明倫館小学舎に学び、剣術は柳生新陰流、弓術、槍術、馬術も稽古している。武術を好み、稽古熱心だった。長じて城下の吉松塾という私塾に通ったが、ここで1歳年下の藩医の息子、久坂秀三郎と入魂となる。後の玄瑞である。

・ある日、定広から『海戦策』と書かれた書類を見せられる。米軍に攻められた際の対応策をまとめたもので、吉田寅次郎(松陰)が献策してきたものだという。その吉田を探して連れて来るよう命じられる。晋作は桂小五郎に聞けば分かるのではと練兵館を訪れ、そこで来島又兵衛に出くわす。練兵館主である斎藤弥九郎は単に剣客だけでなく長州藩に海防問題を建議していた。江川太郎左衛門の書役を務める傍ら、蘭学者の渡辺崋山らとも親交があった。松陰に定広の意向を伝えた際、晋作は「先生と共に墨夷(米国)に渡りたい」と訴えると、松陰は軽薄な考えだと叱責する。「あなたは上士の家に生れ、御世子様からも親しく言葉をかけられる身です。国難に際して、あなたにしか出来ぬことがあるはずです。それを顧みず、自らの望みだけを口にするのは、軽薄というほかありません」。松陰の叱責が骨身に沁みた。自分にしか出来ないこととは何か、考えを巡らし、はたしてそんなことはあるのだろうか?このことがその後の晋作の言動の原点になったのではと思われる。

・この直後、松陰は弟子の金子重之助と共にポーハタン号に乗り込み、米国渡航を願うが、ペリー提督に拒絶される。自首した松陰は江戸伝馬町の牢を経て萩の野山獄に入れられ、1年後、出獄を許され、実家で禁錮の身となった。安政三年(1856)夏、実家で松下村塾を開き、子弟の教育を始める。晋作と玄瑞の入塾は翌安政四年、晋作19歳の時である。20歳の時、海防僧、月性の法話・詩の詠唱を耳にし、感銘を受ける。晋作は忠義と孝行を第一に考える質でもある。その後、江戸に出た晋作は大橋塾を経て、昌平こうに入学した。ただ昌平こうに入学しようとする諸藩の家臣は書生寮に入り、さらに昌平こうの教授の一人に入門する形式を取らねばならず、晋作は安積艮斎の門人となった。元々朱子学者で、蘭学者とも親交があり、著書『洋外紀略』ではアヘン戦争について詳述しており、晋作にとっては打ってつけの師だった。

・その後、江戸の晋作達宛に松陰から一義挙を行う旨の書簡が届く。晋作や玄瑞ら門人は、自重を求める手紙を5人連名で認め、血判を押して松陰に送った。これより先、晋作は「暢夫よ暢夫、天下固より才多し。然れども唯一の玄瑞失うべからず」と送別の辞を贈られていた。松陰は草莽掘起ということを考えるに至っていた。地方の草深い地に住み、身分が低く貧しい者の中から世を変える者が出てくるというのだ。すでに幕府による攘夷派への大弾圧が始まっており、松陰はその犠牲となる。松陰はしばしば、血性ある者、視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起こしてフレーへード(自由)をとなえねば腹悶医しがたし」と憂えた。松陰から見れば、ナポレオンは草莽から身を起こして自由を広めた英傑だったのである。

・安政七年(1860)、晋作は”萩で一番の美人”と評判の井上雅と結婚した。雅の父、平右衛門は小忠太と同じ大組で江戸藩邸の留守居役の任にあった。晋作22歳、雅16歳だった。

・晋作は定広から時勢についての見解を佐久間象山、横井小楠から聞いてくるようにとの下命を受ける。念願だった幕府軍艦教授所への入門にはすでに熱が冷めてしまっていた。軍艦の動かし方に習熟しても所詮、船乗りになるだけ。むしろ長州藩の藩是を定めるため、当代切っての学者を訪ねるのは、その第一歩になるかも知れない。

・七月に桂小五郎と水戸藩の西丸帯刀が会合して「水長密約」を交わしたのを受けて,象山に「長州藩の取るべき方策」を訊ねたところ、「開国だ」の一言。この段階で晋作は興味を失った。彼の関心は西欧列強のアジア侵略から国を守る方策だったのである。他方、小楠は生粋の勤皇家だったが、その一方で西洋列強による植民地化を防ぐために富国強兵を主張し、その力を蓄えるため交易を行うべきだとする特異な開国論者でもあった。90万両にも及ぶ借金に苦しんでいた福井藩は小楠を肥後から招請、長崎に蔵屋敷を建て、オランダ商館との間で越前藩の生糸、醤油などの貿易を行い、小楠の唱える交易論を実践したのである。また物産総会所を設けて生糸のほかに木綿、茶、麻などを取り扱い、これにより安政六年には生糸を25万ドル(約百万両)販売している。晋作が訪れた年のオランダ商館への販売は生糸に醤油を加えて60万ドル(約250万両)に上ったという。長州藩ではかつて村田清風が行った改革の際、馬関に「越荷方」 を設け、東北、北陸や九州から馬関海峡を経て大坂へ輸送される荷を抵当に して金融業を営み、さらに一時的に荷を預かって倉敷料得る倉庫業も行って巨利を得た実績があった。また「外国との交わりも礼儀によって行えばいい。礼を尽くすは義をなさんがためだ」と聞かされ、「横井はなかなかに英物、唯一無二の士と存知奉り候」と玄瑞に当てて手紙を認めた。

・文久元年(1861)三月、晋作は明倫館勤務から定広の小姓役を命じられた。五月になって、晋作は長井雅楽の「航海遠略策」の内容を父から聞かされ舌を巻いた。その内容は、朝廷が率先して開国の方針を取り、幕府に命じるべきだ、と主張する ものだった。こうして朝廷の権威を高め、その結果、窮地に陥っている幕府を救 い、長州藩の存在を大きくしようと雅楽は目論んでいた。晋作は雅楽の才気に感心する一方で、公武一和のための方策としては空論だと思った。事実、ロシア軍艦ポサドニック号による対馬一部占領によって「航海遠略策」は迂遠な策に転落してしまった。

・この頃、晋作は政務役の周布政之助に目を掛けられていた。周布は39歳、生後半年で家禄を継いだ関係で家禄も半減し、六十八石とされ、軽格から這い上がって藩の要職に付いた苦労人だった。村田清風の流れを汲むその周布から晋作は彼の後継者に指名されていたのである。定広は晋作を幕府が派遣する遣欧使節に加えようと画策したが、幕府の許諾が得られず失敗に帰したが、替わって上海に幕吏を派遣する計画があることを察知した定広は、半ば強引に晋作を一行に加えさせ、「彼の地の情勢を探索し、報告を致せ」と直々に命じた。

・晋作を乗せた千載丸は文久二年四月二十九日早朝、上海へ向け長崎から出航した。晋作は幕府小人目付犬塚鋭次郎の従者として乗船した。千載丸には佐賀藩の中牟田倉之助や高須藩、徳島藩、浜松藩の藩士らが幕吏の従者として乗船していたほか、従者として乗り込めなかったため、水夫に身をやつした薩摩藩の五代才助が乗り込んでいた。いずれ劣らぬ秀才ぞろいで、特に晋作は中牟田、五代と意気投合、頻繁に行動を共にする。この辺の事情については拙著『功名を欲せずー起業家・五代友厚の生涯』をご覧頂きたい。帰国の際、五代から蒸気船の出物を紹介された晋作は、「その船買おう」と、購入を画策したが、資金の目処が付かないうちに破談になってしまうという一幕もあった。

・晋作は丙辰丸で萩から江戸に至る六十日間の航海の間に操船技術を学び、また上海行の途次で"航海記録"をつけて航行里数のほか、風向き、緯度、風の強弱、船の揺れ具合などを記した。同行した殆どの者は日本の時刻と里数を使っていたが、晋作はイギリス式に二十四時とマイルを使って記録していた。

・文久二年八月、朝廷は大獄で処刑された者の罪名を削るべしとする勅旨を幕府に提出、これを受けて長州藩は松陰の遺骨を藩主の別邸がある世田谷若林の大夫山に移してよいとの許可を得ていた。無論、晋作らが改葬に当たった。現在の松陰神社である。

・岩清水八幡宮への巡幸は、将軍が供奉する姿を世間に示して、天皇の権威を高めるのが狙いだったが、その際沿道に跪いていた晋作は馬上の家茂を仰ぎ見ると、大声で「征夷大将軍」と呼ばわった。舞台の歌舞伎役者にかけるような威勢のいい声だった。 晋作の乱暴とも見られる行動には、常に冷静な狙いがあることを周布は察するようになっていた。「白昼、路上で声を掛けられるほどの屈辱を味わった将軍はかつておるまい。事を荒立てれば恥の上塗りになるだけに幕府は却って何もできぬ。その辺りのことを読みきった上でしたのではないか」。英国公使館焼き討ちに際しても晋作は、まず用意してきた鋸で柵を切り、退路を確保していた。その上で火付け役は公使館内に忍び込むなり、焼玉の導火線に点火したのである。

・10年の賜暇を与えられた晋作は頭を剃り上げ墨染めの法衣ををまとった姿で周布の許を訪れる。和製の長髪族になり、松陰の「草莽掘起」を実践するというのである。しかも名前をお気に入りの西行になぞらえ、東行と名乗るというのだ。折柄、藩が「航海遠略策」から破約攘夷へと藩是を改めたが、晋作は「大割拠(地方を根拠にたてこもること)」を主張する。「防長二国に割拠して富国強兵の策を施し、攘夷を行う」というのである。ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬の一部を占領した際、晋作は長州藩と支藩の長府藩や清末藩の飛び地が入り組んだ馬関は、防備が手薄であることを指摘した<馬関論>を書いて、藩に建白した。また、長崎での見聞を基に<長崎互市之策>を立てた。長崎の土地を買い上げて蔵屋敷を置き、長州藩の物産を広東や上海、香港のほかにロンドンやワシントンにまで売りさばいてはどうか、との考えを披瀝した。こうした構想を元に馬関開港を想い描いていたのである。

・文久三年五月、長州藩は攘夷決行を標榜し、米艦、仏艦を相次いで砲撃、久坂玄瑞をリーダーとする光明寺党は意気盛んに攘夷戦の緒戦を勝利したと誇ったが、その場に居合わせた者の中にただ一人、「それは違うのではありますまいか」と言い出した男がいた。高島秋帆の弟子で、長州藩が招いて砲台造りを依頼した西洋砲術家の中島名左衛門だった。海峡を通航していた商船に不意打ちで損害を与え、勝利の快哉を叫んでいるが、本格的な外国軍艦が来襲すれば、今の砲台では到底太刀打ち出来ない、と冷静に話した。「弾の飛ぶ距離が違うのです。砲台からの弾は外国軍艦には届かず、外国軍艦の大砲は砲台をあまさず撃つことができます。しかも急造した砲台は決してd堅牢とは言えません。この度の外国船砲撃に対し、必ずや軍艦による報復があります。その時、いかがされるおつもりか」。光明寺党は激高し、精神論を唱えて反論した。その他の者はしずまり返り、定広はわずかに顔色を変えて黙したままだった。このままでは攘夷戦遂行の邪魔になると考えた光明寺党は怒りの矛先を名左衛門に向け、その夜のうちに彼を惨殺してしまった。

・その後の戦況は名左衛門の予想通りの展開となり、長州藩は存亡の危機に直面する。政事堂に呼び出された晋作は藩主、敬親から「馬関防御を委任するゆえ、出張すべし」との下命を受け、「臣に一策あり」と応えた晋作は即座に馬関に向かった。馬関在住の兵力の拡充に努め、藩の正規軍である先鋒隊の建て直しや、漁師、、力士隊の編成を行った。武士だけでなく百姓、、町人の力で馬関を守ろう。武士ならば他藩の領地を犯せば戦になるゆえ難しかろうが、百姓、町人ならその限りではあるまい。「私は上海を見てきた。政府軍は洋夷との戦に破れた後、屈服して戦おうとしないのだ。あきらめずに洋夷と戦い、国を守り抜こうとしているのは、太平天国に集まった百姓、町人たちであった。守ろうとする者あってこその国だ。守り抜いた者に身分の隔てがなくなるのは当たり前であろう」。晋作は馬関総奉行手元役として馬関に関わるすべてを掌握し、さらに藩の政務座役、並びに奇兵隊総管に任じられ、名実ともに奇兵隊総督となった。その後長州藩で組織された隊は二百を越え、総称して諸隊と呼ばれたが、まとめて奇兵隊とよばれることもあった。

・「幕府軍(征長軍)が間もなく長州に迫ろうとしている。外国とは和睦するしかない」との山田宇右門の主張に定広も同意、井上聞多は「講和使節には、ご世子様自ら臨まれるべきです」と訴えたが、藩内にはそれを許さない空気がある。困惑した定広は晋作に対応を訴え、四カ国連合艦隊との和睦交渉は晋作に託されることとなった。講和使節の正使となるに当たり、晋作は主席家老の宍戸備前の養子という形を取り、名も宍戸刑馬と称した。杉孫七郎、長嶺内蔵太が副使、伊藤俊輔が通訳として従った。この時の晋作の様子をアーネスト・サトウは「悪魔(ルシフェル)のようだ」と記している。サトウは変幻自在な外交を行う晋作に興味を抱いた。表裏が目立つ幕府の人間に嫌悪の情が起き始めていた英国側の人間に晋作は魅力的に映ったようである。三回目の交渉で長州は四カ国連合艦隊との間で講和したが、その直後、幕府は藩主親子の官位を剥奪した。征長軍の派遣が具体化する中、「禁門の変の罪を謝し、毛利家の存続を図るべきとする恭順派」が台頭、幕府軍が攻めてくれば迎え撃ち、たとえ藩は亡んでも義名を残すべきだとする武備恭順派と対立するようになっていた。後者・武備恭順派代表が晋作、井上聞多らで、自らを正義派、前者を俗論派と呼んだ。聞多が遭難、周布が病を得て自刃したのを機に俗論派が藩政の主導権を握り、晋作は窮地に追い込まれる。

・九州に渡った晋作は元治二年(1865)三月、長崎に入るが、その翌日には薩摩藩が藩領の串木野羽島浦から五代才助、松木弘庵、新納刑部らが率いる若い藩士15人を出発させていた。晋作はグラバー邸を訪問、坂本龍馬と出会う。また英国通訳官のラウダからナポレオン三世の話を聞かされる。密かに英国渡航を画策していた晋作だが、幕府軍による征討が始まるという風聞を耳にして、蒸気船オテント号を独断で購入し、馬関に戻る。一方で、晋作は滞在先の九州で野村望東尼と出会っていた。福岡藩士、野村新三郎の妻だったが、夫の没後、剃髪して尼になった。大隈言道に和歌を学び、福岡藩の平野国臣と歌の道を通じて親しくなり、勤皇派歌人の一人として知られていた。望東尼の厄介になった後、馬関に帰る晋作に「真心をつくしのきぬは国のため たちかえるべき衣手にせよ」との贐の唄を贈った。

・馬関の白石(正一郎)邸では福岡藩の月形洗蔵が待ち受けており、「四境を囲まれている長州藩の苦境を打開するには薩長和解しかないのでは」と諭される。さらに土佐の中岡慎太郎からも同様の話を聞かされ、併せて大島三衛門と名乗る男の訪問を受け、晋作も「谷梅之助です」と応じる。大島はポサドニック号を引き合いに出し、「薩長同盟はロシアに抗するためのエゲレスとの同盟になる」とも言う。そして五卿(八月十八日の政変で都落ちした七卿のうちの五人)を引き渡したら直ぐにでも征討軍を解兵すると約束。晋作は決起し、藩政の主導権を握るべく八面六臂の活躍をするが、犠牲者も少なくなかった。決起から十日で馬関の要塞化に成功、五卿の渡海承諾書が小倉にいた大島(西郷吉之助)に届けられ、西郷は即座に広島に向かい、征討軍総督、徳川義勝に解兵を建言、直ちに撤兵令が発せられた。

・晋作の活躍もほぼこの頃までであった。早くから労該に罹っており、思うような動きが取れなくなっていたのである。九州潜伏に同行した愛妾、うのが付きっ切りで看病に当たった。うのは唐人と遊女の間に生れた子で、幼い時に母を亡くし、油商紅屋の養子に貰われていた娘である。無論、晋作の家族、雅を始め長男、両親らも見舞いに訪れた。野村望東尼も訪れ、「高杉様の名残りのお歌を頂戴しとうございます」と求められ、「おもしろきこともなき世をおもしろく」と上の句だけを書いてから晋作は望東尼に筆を渡した。下の句を書いて欲しいということだと察して、望東尼は書き添えた。「すみなすものは心なりけり」と。「面白いのう」晋作がつぶやく。

・慶応三年三月に入り、晋作の病状を危うんだ藩では、二十九日、晋作に新たに百石を与え、谷家を創立するようにとの沙汰を伝えた。四月十四日未明、晋作は眠るがごとく逝った。満27歳と8ヵ月だった。大政奉還まで僅か半年。この時、父、小忠太ですら50歳だったのである。

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