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「藤本ひとみ著『維新銃姫伝ー会津の桜、京都の紅葉』を読んで。」
2013/01/09 (水) 23:36 渡部 修


【読後感】

・一昨年5月に紹介した『幕末銃姫伝』の続編である。

・土佐出身の参謀、岩村精一郎と長岡藩家老・河井継之助との所謂小千谷談判決裂を機に、奥州越列藩同盟は崩壊、旧幕側は会津鶴ケ城に立て籠もり官軍を迎え撃つ。この間の銃砲の使用に関しての事実上の指導者は川崎八重で、出石出身の尚之助ではなかった。この辺り微妙な立場の尚之助に自ずと同情してしまう。結局旧幕側は開城を余儀なくされる。白虎隊士や多くの一族諸共の自刃といった悲劇を伴いながら。しかも「埋葬まかりならん」との通達が出される。「朝敵の遺体は野ざらしが相応」とのことで。城は藩代表の山川大蔵から官軍側を代表する長州藩の前原一誠に引き渡される。その際、前原は「この戦において、私は、大義に殉じんとした会津藩士の志に深く感銘を受けた。正に武士道ここにあり、だった」と洩らし、「何か出来ることがあれば、申されよ。お力になりたいと思っている」と伝える。そんな中、八重は篭城兵士達と共に一旦、猪苗代の謹慎所に向かうが、大蔵の懇請で会津の仮住まいに家族共々引き移る。

・会津藩は陸奥斗南藩3万石(大蔵が事実上のトップである権大参事に就任)に移封、藩士と家族ら2万人弱は身の振り方を迫られるが、「報復が叶うまで、私達は戦いの中にあるのです。どんな土地であっても甘んじて受け、藩が一丸となって未来を切り開くべきではありませんか」とする八重は開城時、離縁した川崎尚之助の弟子、内藤新一郎の口利きで家族と米沢に移り住む。大蔵はその後も前原との手紙のやり取りを続けていたが、「新政府内の汚濁を見るに忍びず、それに参加するのも汚わらしく、(同志の)奥平の後を追って私も辞表を出した。萩に帰る。また会おう」との手紙を受け取る。

・鶴ケ城開城から2年半ほどして八重の許に切腹させられた筈の兄、覚馬からの手紙が届く。京都府権大参事、植村正直の求めで京都府顧問の任にあり、すっかり寂れてしまった京都の復興に力を貸して欲しいというのである。筆跡が違うので訝しく思ったが、すでに目を病んでいた覚馬はこの時、ほぼ失明状態にあったのである。ただ覚馬には同棲する女性がおり、その件で八重に相談すべく別途書簡も同封されていた。すったもんだの挙句、覚馬の妻は身を引き、娘を八重の家族に同道させ、一家は京都に移住する。

・廃藩置県は衝撃的な転機となる。「廃されるのは、我が藩ばかりではない。敵と狙う薩長土肥もなくなるのです」との母の言に八重は愕然とする。開城時の筆頭家老だった梶原平馬も、大蔵も新政府を糾弾し、恨みを募らせ、怨嗟の声を上げているどころではなくなってしまった。朝敵とされた会津人が朝廷および帝につくし、新しい国創りに参加することで汚名を雪ぐ。そのための道を自分達が作らねばとの思いに駆られ、その方途を探ることになる。

・明治7年に入り、参議を辞した江藤新平が地元、佐賀に帰郷。直後には岩倉具視が士族に襲われるという事件が発生。それに呼応して新政府は神奈川県権参事、岩村高俊を佐賀県権令に任命する。河井継之助と小千谷で談判したあの岩村精一郎である。これを挑発と見た覚馬は「必ずや江藤や士族集団と対立する。それを口実に一気に鎮圧、抹殺するつもりだろう」と断じたのに対し、八重は「江藤殿は、冷たいほどに冷静なお方です。簡単に挑発などに乗らないのでは」と応酬するが、覚馬は「江藤があれほど強烈に自分の考えを押し通せるのは、胸の内に熱があるからだ。誰よりも熱い火を抱えて、自分の理想に向かって邁進しているのだ」との観察眼を披瀝する。

・他方で覚馬は明治5年、京都復興事業を通じて宣教師ギューリックらと知り合い、彼らから聖書を渡されていた。その赤表紙の本を家族は禍々しいものでも見るように遠巻きにしていた。が、覚馬は「西洋は、わが国と比較にならないほど進んでいる。京都はその全部を取り入れようと必死だ。だが、形だけ取り入れるのは、猿真似にすぎない。西洋の文化の根底には、キリスト教があり聖書がある。それが西洋の背骨、西洋の精神なのだ。それを理解せずして形だけまねても身に付かず、よって独自の発展をさせることも不可能だ。すべては真の理解から始まる」のだと諭す。さらに京都博覧会にやってきた宣教師ゴルドンからは中国・寧波で出版した『天道遡原』なる本を寄贈された。覚馬は本人に読んで貰ったとのことで、「新しい精神、つまり今までこの国になかった考え方が書かれているような気がする。それこそ私の求めていたものかも知れない」との感懐を語る。眉をひそめた八重だが、これがきっかけとなって聖書に触れることになる。さらに勝海舟の紹介とかで安中藩出身、米国帰りの新島襄が覚馬を訪ねて来る。キリスト教主義の学校を作りたいので相談に乗って欲しいというのである。新島は言う。「私の目的は、宗教を広めることではありません。キリスト教の精神が、今後の日本人を育てると思っています。だからこそ、その学校を建てたいのです」「新政府は腐敗し、巷には不満が満ちているとか。それは人の心が荒廃しているからです。それを立て直せるだけのものが今のこの国にはないのです。私はキリスト教の精神こそこの国に必要なものだと考えています。それは宗教というより倫理なのです。しかも新しい倫理だ。それを身に付けた日本人が、今後のこの国を支えると考えています。この国の未来のために、この国の人材育成のために、私はキリスト教精神に則った学校を建てたいのです」。彼の真摯で一途な姿に八重は胸を打たれる。儒教教育では、もう限界だと悟っていた覚馬、そして八重は新島の考えに共鳴し、協力を約す。

・新島の出した「私塾開業願」は覚馬旧知の植村正直が京都府知事に就任しており、すんなり認可され、文部省に回された。文部卿は木戸孝允が辞任したばかりで空席だったが、文部大輔、田中不二麿は新島が面識があったこともあり、順調に事は運び、明治7年9月私塾開校の認可が下りた。「同志社英学校」である。因みに田中不二麿は小生の勤務先である田中千代学園の創設者、田中千代女史の夫君、薫氏の祖父に当たる人物、後に司法卿、司法大臣、子爵となる。

・本書については恐らく続編が用意されていると思われる。が、当面はNHK大河ドラマ「八重の桜」に委ねたい。正月5日に第1回が放映され、好視聴率を記録したという。米南北戦争の場面で蓋を開けたが、「世界史の中の日本」という意味合いもさることながら、南北戦争で使用された銃器類が実は幕末・維新期に大量に輸入され、威力を発揮したからであろう。今後の展開が楽しみである。

渡部 修  
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